にちにち日記

好きな植物はニチニチソウ。日々是好日ということで。

牛丼は体に悪いのか?を考えさせられた感動の実話

あの頃の僕らには、それはご馳走だった。

 

当時小学生だった僕は、父と兄と度々外食をした。

「今日は何食いにいこうか?」「うーん、吉牛!!」僕らは答えた。席に着くと、店員がお茶を持ってきた。「牛丼、特盛、ツユダクで!」
すかさず注文をする。
なんと甘美な響きだろう。おもわず声に出したくなる、贅沢な響きだ。
父は既にお新香を冷蔵庫から取り出し醤油を垂らしている。
まだ小学生の僕らはお新香へ手を出さない。それは、冷蔵庫から勝手に取り出すという行為の背徳感が随分と届きそうにない大人の領域の様に感じられたからだろうか。
牛丼は5分と待たずに運ばれて来た。
だが、その5分が永遠かのように長く感じらる。それは牛丼に魅了された者にしかわからない、時の流れというものだろうか。


「ぁあ、疲れたぁ!!」深夜の牛丼屋で、水を飲みながら言葉が漏れた。
小学生だった僕も気がつけば20代半ばを過ぎていた。
仕事終わりに牛丼を食べるという選択は、飲食店で働く私にとって妥協でしかない。
眠たい目をこすりながら、空いた胃袋を満たす。
まわりを見渡せば、不機嫌な男、すっぴんの女、ぼろぼろのサラリーマン、イヤホンをつけながら貪る若者、どいつもこいつも腑抜けた大人たちである。深夜の牛丼屋は冴えない大人で蔓延していた。
だが自分もその一部であることは間違いない。

 

アルバイトのHさんと、仕事終わりに牛丼を食べに行ったことがある。
Hさんは、この牛丼屋をいたく気に入ったらしい。牛丼を不自然に彩る薄紅色は、大量に盛り付けられた紅ショウガである。肉と紅ショウガ1対1の比率は、彼独自のスタイルに他ならないが、それで牛丼の味がわかるのかは不明である。

それから何日か経って、Hさんと働いている時のことだった。

「牛丼食いたいっすね」

「それなら次の土曜日は早く上がれそうなんで、行きましょうか。」

何気なく取り付けた約束だった。

そして、来たる土曜日のことである。

「おはようございます。」

出勤してきたHさんと挨拶を交わす。
その時、Hさんが眼を輝かせながらこちらを見ているのに気がついた。

「今日はやけにキラキラしてますけど、何かありましたか?」

「わすれたんですか?仕事終わったら牛丼っすよ!」

そうだった。
そう言えば、そんな約束をしていた。

「あぁ!そうでした!牛丼を楽しみに頑張りましょう!」

とりあえず、テンションを合わせて相槌を打ったのだけど、よく考えるとこのやりとりはなんだか滑稽だなと、思った。

大人になった私たちにとって牛丼とは、単なるジャンクフードでしかない。安くて早くて身体に悪いの三拍子であり、夜な夜な牛丼を食べる自分を俯瞰的に見てしまえば劣等感に苛まれる。
私たちは、そんな牛丼をモチベーションにし、今日の仕事を頑張ろうと互いに誓い合ったのだ。
思わずその可笑しさに吹き出してしまったのだが、それと同時に子供の頃の記憶を思い出していた。

 

あの頃の私たちにとって、確かに牛丼はご馳走だった。
だが、今はどうか。
牛丼に劣等感を持つ私がいる。
そして、眼を輝かすHさんがいる。
どちらが魅力的だろうか。ちなみに彼は36歳である。

私の中で何かが溶けた。
いつの間にか世間体に惑わされ、牛丼に対する劣等感を持っていた。

だがそれは美味いとは何ら関係ない。美味いものはご馳走だ。それでいいではないか。

 

私たちのテーブルに牛丼が運ばれて来た。
あの頃特別だったツユダクは、今は苦手だ。豚汁を追加して七味を少々。紅ショウガを丼の端に添える。
Hさんは今日もアホみたいな量の紅ショウガを盛り付ける。アホだ。完全に。
でも、それでいい。

誰にとっても自分にとっての美味しいは、ご馳走なのだから。

 


あとがき


健康ブームな近年、食べ物の品質や安全性が注目されていますよね。

ジャンクフードと呼ばれる食べ物は敬遠され、悪者の様に扱われている気がします。筆者もそうでした。

ただ、本当にジャンクフードは悪なのでしょうか。

単純にカロリーや栄養バランス、添加物の有無だけを見れば、健康な食べ物とは言えないのかもしれません。でも、食事の価値にはもっと違った要素があるのではないでしょうか。

安くて早い提供は、時間のないサラリーマンにっとては有難いし、子供の空いたお腹を安く満たせることは、家計を助けるでしょう。

筆者は仕事柄、ジャンクフードに対して偏見を持っていました。でも、この実体験から食のあり方を考え直すきっかけとなりました。

食を楽しむこと。それだけで、付き合い方が変わったなぁ、と感じたので今回はこんなブログでした!

以上!