桃のソースから学ぶ、人生の哲学の様な話
それは、以前勤めていた飲食店でのことです。
その日は1日中忙しく、営業後ひとり残業して仕込みをしていました。
桃の季節でしたので、デザート用の桃のソースを作っていました。
上手に出来て、粗熱を取るためにタッパーへ移し、蓋をせずに置いていました。
洗い物をしようと流しへ行くと、シンクの脇に親指程の蛾が止まっているの見つけました。
蛾だ。と思いました。
夜中にひとり残業をしていると、気力はほぼゼロになっていますし、心にゆとりはありません。そんなわけで、躊躇なく殺虫剤を浴びせたのです。ひどい話です。
思えばこれが悪夢の始まりでした。
蛾はよろよろと飛び立ちました。コロリとはいかずとも、そのダメージは相当なものと推測できるよろめきようでした。
しかし、私は不覚にもふらふらと舞う蛾を見失ってしまったのです。物の多い厨房では、探すのは困難。目を皿にして探索するも虚しく、逃げ切られてしまいました。
仕方がないので、洗い物を済まし、桃のソースをしまって帰ろうと思いました。
私は、桃のソースのその白い見た目とジューシーな桃の香りが好きでした。
出来たばかりのソース、一口味見したい衝動に狩られます。この胸騒ぎ。誰か止めてくれ。
そして目をやったその先にあるそれを見つめ、さらに動悸が早くなったのです。
そこにいたのは、蛾でした。
純白の桃のソースの中に、蛾が浸かっていたのです。
羽をバタつかせ、まさに虫の息の様相です。
鱗粉がソースの白を汚します。
その蛾は先程逃がした蛾で、間違いありません。
一寸の虫にも五分の魂という言葉があります。
昔の人は、どうやらこの光景を目にして、この言葉を思いついたに違いない。
一矢報いたとはこのことです。
クロスカウンターをまともに食らったとも言えるでしょう。
死んでもせめて相打ちに・・・という言葉が聞こえて来るようです。
私が、好きな桃のソースは、蛾と心中し私のもとから去っていきました。
試合に勝って、勝負に負けたそんな虚無感を噛み締めます。
涙を拭い、仕込みに戻ります。
あの時こうしていれば、
そんな無意味な後悔が頭をよぎる深夜1時過ぎのお話。
後日、
帰宅して外に干していた洗濯物を取り入れていた時です。洗濯ばさみがたくさんついた物干しから、勢いよく一斉に洗濯物を外します。外すというか引きちぎる様に。男性ってずぼらです(女性もこの外し方しますか?)
夕暮れ時の逆光で、目があまり見えなかったのですが、全て外したはずの洗濯ばさみに生地の切れ端が残っていました。
やべぇちぎってもうた。と思いました。
恐る恐る手にとり確認しました。
それは、蛾でした。
強烈にあの時の記憶がフラッシュバックします。
姿形は同じです。まさか、、
いやしかし、桃のスープと心中した現場にいたのは私です。ゴミ袋にダンクし口を硬く結んだのも私。あの時の憎悪は尋常ではなくそこに油断や隙はなかったはず。
だとすると、こいつ、不死身か?
私はもう冷静な判断は出来ませんでした。
この恐怖から早く解き放たれたい。その一心で、手中の蛾を思い切り投げ捨てました。
夕日に舞うそのシルエットは、さながら赤く燃える不死鳥の様に私には見えたのでした。
私はまだ悪夢の中にいる。そしてそれは、決して覚めることはない。